エレクトロ(英: Electro; electro-funk もしくは electro-boogie の略称)とは、1982年から1985年の間に流行した電子音楽の1ジャンルで、楽器としてリズム・マシンのローランド・TR-808を使い、ヨーロッパの電子音楽とアメリカのファンクが融合して成立しました。初期のブレイクダンスのBGMとして愛用され、後のさまざまなダンスミュージックへ影響を与えました。
ニューヨーク、ブロンクス出身のDJであったアフリカ・バンバータが、彼のDJプレイでもよく回していたクラフトワークの「ヨーロッパ特急」のメロディ、同「ナンバース」(『コンピューター・ワールド』に収録)のビートをサンプリングして旧友アーサー・ベーカーとともに作ったレコード、「プラネット・ロック」(1982年リリース)がその起源とされ、ラップをフィーチャーしたこのレコードでラップをより広め、バンバータはそれらの功績から初期ヒップホップ界において三大DJの一人に数えられます。このエレクトロはヒップホップ、テクノ、双方の音楽に影響を与え、ドラムマシンのTR-808を使ったビートが特徴的であり、初期はエレクトロ・ファンクとも呼ばれていました。エレクトロは曲の基礎に、基本的にクラフトワークの「ナンバース」のビートを使うか、これをアレンジしたものを使っていたため、ほぼ似たり寄ったりの曲が多いのが特徴。この音楽の流行は短命で終わり、1985年を境にメジャーからのレコード発売は途絶えています。途中、エレクトロの一部がマイアミにて発展し、1990年代初頭にマイアミベースとして人気を博したこともいました。
以降もデトロイトやオランダなどのアーティストにより、細々とではあるがエレクトロの作品は作られ続けています。それらはニュー・エレクトロなどと呼ばれる場合もあるが、基本的なスタイルは1980年代初期のそれと変わってません。
曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スクール(Old School、1970年代末 - 1980年代初頭)、ニュー・スクール(New School, 1990年代以降)と呼び、オールド・スクールのラッパーにはグランドマスター・フラッシュ、トリーチャラス・スリー、スーパー・ウルフらがいました。1980年代後期 - 1990年代前期はラップの全盛期だったことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップと呼ばれる場合もあります。日本では80年代半ばのラップをミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。ミドル・スクールのラッパーには、Run-D.M.C.、LLクールJ、UTFO、フーディニらがいました。
単に「ヒップホップ」と呼んだ場合、サンプリングや打ち込みのバックトラックに、MCによるラップを乗せた音楽を指すことがありますが、これらはヒップホップ・ミュージックと呼ぶのが正しいとされてるようです。これに「ブレイクダンス」と「グラフィティ」などを加えたものが本来のヒップホップで、ヒップホップにおいて、ラップ(MC)、DJプレイ、ブレイクダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれています。
ブレイクダンスの全盛期は、1980年代前半とされていて、英語圏ではブレイキン(breakin')、B-ボーイング(b-boying)、B-ガーリング(b-girling)とも呼ばれ、ダンサーをB-ボーイ(b-boy)やB-ガール(b-girl)、ブレイカー(breaker)と呼ぶ。B-ボーイ、B-ガールの“B”はブラックの“B”と誤解されがちだが、これは誤りで、Bボーイとはブレイク(突破)する者、もしくはブレイクビーツで踊る者の事でです。「ブレイクダンス」「ブレイキン」という呼称は、1980年代前半に世界的に広く知られるようになりました。
ロックダンスを考案したのはアメリカ人のDon Campbell(ドン・キャンベル)で、Campbellock(キャンベルロック)とも呼ばれました。1969年、L.A.で、彼は当時流行していたダンス(Funky Chicken)を滑らかに行う事ができず、その代わりにロック(静止する)スタイルを生み出しました。
また、ロックダンスの代表的な動きには観客に向かって指をさす(ポイント)がありますが、これは彼が観客から笑われたため、指をさしたのが始まりと言われています。このように、ロックダンスには何気ない動きを取り入れた物が多く存在しています。
1970年代に入ってから、彼はThe Lockers(ザ・ロッカーズ)というダンスチームを結成しました。The Lockersは「Saturday Night Live(サタデー・ナイト・ライブ)」に出演し、1972年にはTV番組「Soul Train」に起用され、一躍有名になりました。